アサヌマコーポレーション麻沼雅海社長、社内外の風潮を打開し成長へ

C&T 2015年12月15日号 66ページ

カンタンに言うと

アサヌマコーポレーション麻沼雅海社長、社内外の風潮を打開し成長へ
 「改革」「成長」という言葉を口にするのは簡単でも実行して目標通り、もしくは目標以上に成功することは難しい。アサヌマコーポレーションの麻沼雅海社長は、同社に入社した際に改革の必要性を感じ、すぐに実行に移した。

 社長職を引き継ぐ前からはじめた社内の改革は、社長就任後にさらに加速し、見事に会社を成長へと導いた。現在は新規参入したスキンケア分野の成長を目指し、技術力の向上を図っている。

幅広い製品開発で3本柱を獲得・育成
技術を磨き、プロフェッショナル集団に

 ――国内初の鉛筆型眉墨の製造から現在まで、大きくステップアップしてきました。

 麻沼 私は1966年に社会人になり、松本伊兵衛商店(現:マツモト交商)に入社した。当時の麻沼工業(現:アサヌマコーポレーション)は松本伊兵衛商店から化粧品原料を仕入れていたが、私は化粧品原料ではなく化成品の営業を担当していたため、直接的な関わりはなかった。

 はじめて松本伊兵衛商店で賞与をもらった時のことをよく覚えている。

 賞与をもらった日の夜、同期と一緒に祝杯をあげた帰りの電車の中で私は貧血を起こした。周囲の乗客の方から心配されながらなんとか降車駅にたどり着き、電車から降りたところで再度貧血を起こして人の波に流され、ホームの反対側線路に転落してしまった。丁度電車がホームに入ってきたが、奇跡的に電車に接触しない場所に落ちたため、助かった。

 少しでも腕や脚の位置がずれていたら助からなかっただろう。頭に傷を負ったものの、むしろそのお陰で頭に血が溜まらなかったのでよかったらしい。

 様々な幸運が重なって助かったことで、「自分は運がついてるな」と実感した。

 1968年に縁あって先代の麻沼武雄社長の養子になって当社に入社し、化粧品との関わりはそこから始まった。

 当時は鉛筆型眉墨とマニキュアのみを製造しており、売上げは数億円ほどの会社だった。1970年代前半にはパウダーものの製造もおこなっていたが、使用していた原料の問題で撤退していた。売上げのうち、9割方がカネボウ化粧品からの受注であり、残りの10%がその他の化粧品本舗からのものだった。

 先代社長が「カネボウさんが倒れるとうちも倒れる」と話していたほど、カネボウからの受注に依存していた。

 私が営業部長になったころには、1本柱ではなく3本柱のお得意様を確保しなくてはならないと考えていた。

 1本目はカネボウからの受注、2本目として他の得意先をひとまとめにした受注を育てて大きなものにすることだったが、3本目の柱を見つける必要があった。

 しかし、取り扱い製品が鉛筆型眉墨とマニキュアのみで扱う品が少ないため、3本目のお得意先を見つけることは困難だった。

 そこで、マスカラやファンデーションなどのポイントメーク、ベースメークを至急作らせた。取り扱い製品を増して提案の幅を広げることが先決だった。

 ポイントメーク全般を作れるようになり、私は新規得意先の開拓を始めた。当時の営業は私だけだったため、工場から2人を営業部へ連れてきて、なんとか部署としての体制を整えた。

 3本目の柱を作るための製品・人員がそろったあたりで、薬事法の一部改正や化粧品業界の環境変化もあり、得意先が良質でリーズナブルな価格のものがあればOEMを使おうとする度合いが強まり、今まで営業が出来なかった大手の本舗にもアタック出来るようになった。グローバルメーカーからの受注も来るようになり、ようやく3本目の柱ができた。

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