はじめに
日本は、江戸時代に入ると、上流階級だけではなく庶民も化粧をするようになる。この頃の女性の化粧で、肌に塗るものは白粉である。これに濃淡をつけて塗ることで、質感の違いや顔の微妙な立体感を生み出した。水白粉や粉白粉を刷毛で肌に伸ばし、丹念に丸い刷毛ではたき込み、さらに余分の白粉は別の刷毛で拭って落とすという手間のかかるものであった。
和服はうなじが広く出るので、襟元に白粉を塗ることも重視された。また結納のすんだ女性にはお歯黒が行われる風習があった。口紅は唇の中心につけるだけで、おちょぼ口に見せた。こうした化粧の伝統は、大正時代に至るまで根強く残った。
白粉、お歯黒、紅だけでなく日本の化粧文化のルーツが19世紀までにあると思うので、いくつかを紹介する。平和に暮らす江戸庶民の中で、発展した化粧文化に「ええド」と言いたくなるのではないだろうか。
コスメショップ
江戸時代、産業・文化の繁栄と共に一般庶民も化粧を楽しめるようになり、化粧品店が登場する。中でも人気だったのは、紅では日本橋の玉屋、白粉では京橋の坂本屋というように、看板商品のある専門店である。実はこれが世界初の庶民向けの化粧品店である。
特に紅は、「寒紅」といって、一年で一番寒い時期、小寒(1月5日頃)から立春(2月4日頃)の「寒中」に作られたものが最も上質で、寒中丑の日に販売される紅は「丑紅」と呼ばれ大人気になり、店先には長い行列ができたという。
もうひとつ化粧品を販売していたのは、いうなればドラッグストアの元祖、「小間物屋」。化粧品だけではなく櫛や簪、袋物などお洒落雑貨もズラリと並び、百貨店もスーパーもない時代、小間物屋に行くのは女性にとってのお楽しみだったに違いない。さらに便利だったのが、「背負小間物」とよばれる訪問販売もあった。居ながらにして、化粧品の使い方や、時には髪形やメークのトレンド情報を聞けるのも重宝だったようである。
洗顔料
平安時代の貴族階級は、館に浴室を持ち小豆を使った洗顔料を使って顔や身体を洗っていた。これにかわって、お米からとれる糠にシフトするのが、白米を主食とした江戸時代である。身近な存在の糠であれば手軽に手に入る。江戸の女性たちにとって洗顔がぐっと身近になり、洗顔=日々のスキンケアという今と変わらない洗顔意識をもたらしている。
洗い方は、絹や木綿の布を袋状に縫い合わせた糠袋のなかに糠を入れ、ぬるま湯に浸してしぼったら、顔もふくめた全身の肌の上をなでるように滑らせるといったものである。注目するのはその効果である。糠には油分やビタミン・ミネラルなど栄養がたっぷりと含まれていて、肌をしっとりさせてくれる。その効果は、150年近く経た今でも化粧品に米糠が使われていることからも明らかである。糠をきっかけに、洗顔が女性たちにとっての習慣になると、ただ洗うだけでなく美肌への期待を募らせるターニングポイントになったのだろう。
メーク
便利なペンシルやアイブローがなかった江戸時代は、何で眉メークをしていたのかというと、麦の穂が腐って黒くなったものや行灯の油煙を用いていた。今ではホントに?と思うものばかりだが、まさに市販品がない時代の知恵である。当時の美容本には「短い顔や丸顔の人は三日月に」と顔の形によって最適な眉も指南されている。
やはり江戸時代も今と同じように自分に似合う眉の形を気にしていた!とはいえ、庶民の女性は子どもを生むと眉を全部剃って(引眉)、眉を描かないのが江戸後期の社会習慣になった。当時の女性にとって眉は、娘時代の貴重な記憶だったようである。
マニキュア
幕末の頃、紅や鳳仙花を使った「爪紅」という化粧があった。紅を薄く溶いて塗る爪紅だが、紅は金にたとえられるほど高価だったので、この化粧ができたのは一部のセレブな女性たちだけである。塗り方も濃かったり、爪いっぱいにつけるのではなく、身分の高い女性にとって化粧は礼儀作法のひとつだったようである。おしゃれ感覚で自由に楽しむものではなかった。日本で今のようにカラフルなネールが一般的になったのは、1960年代である。
島田邦男
琉球ボーテ(株) 代表取締役
1955年東京生まれ 工学博士 大分大学大学院工学研究科卒業、化粧品会社勤務を経て日油㈱を2014年退職。 日本化粧品技術者会東京支部常議員、日本油化学会関東支部副支部長、日中化粧品国際交流協会専門家委員、東京農業大学客員教授。 日油筑波研究所でグループリーダーとしてリン脂質ポリマーの評価研究を実施。 日本油化学会エディター賞受賞。経済産業省 特許出願技術動向調査委員を歴任。 主な著書に 「Nanotechnology for Producing Novel Cosmetics in Japan」((株)シーエムシー出版) 「Formulas,Ingredients and Production of Cosmetics」(Springer-Veriag GmbH) 他多数
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