【C&T2022年10月号7面にて掲載】
はじめに
私の好きな言葉がある。『お金がお金を連れてくるのやない。人がお金を運んでくるのや。つまりお金連れてくる人間様に真心を尽くすしかない』とは7年前のNHK朝ドラ「あさが来た」のモデルだった広岡浅子の言葉だ。
彼女は明治に大同生命保険や日本女子大学を発起した一人だった。“ほんまやわぁ~お金に限らず、物やサービスを売ったり、買ったり、楽しんだりするのは全て人さまやわ。
商売するんやったら、人さまを中心に据えて、皆様の為に頑張らなあかんのやなぁ~”と納得する。
そんな“人”を喜ばせて歓ばれる人生を送る女性が、私たちの化粧品業界にもこれまでにいた。
今回は顧客一人ひとりと関わってきた、ビジネスウーマンのエスティ・ローダー(Estée Lauder, 1906年7月1日~2004年4月24日)を述べてみたい。
エスティとは
エスティ ローダーと聞くと、10年以上前に米国ロングアイランドのメルヴィルの研究所に何度も通ったことを思い出して懐かしい。
エスティ・ローダーの本名はジョセフィン・エステル・メンツァーで、家族からあだ名と呼ばれていたエスティ(Esty)からヒントを得てエスティ(Estée)としたという(図1)。
ローダーの方は、1930年に結婚した夫のジョセフ・ラウターがオーストリアから米国に移住してきた時、役人のスペルミスで「ラウター」となっていたのを正しい姓に直し、2人は姓を「ローダー」に改名した。何故かその後2人は一度離婚しまた再婚している。
ユダヤ人移民だったハンガリー系父とフランス東欧系母の8人兄弟の2番目の娘として、ニューヨーク州クイーンズで育った。
高校を卒業し、幼少期の大半は生計を立てるため、家族の金物店で働き、そこでビジネス、起業家精神、そして成功した小売業者になるために必要なものを吸収していったようだ。
1946年に夫のローダーと共にニューヨークで今の会社が創業した。最初は、万能クリーム、クリーム状のパック、クレンジングオイル、スキンローションの4種の製品しかなかった。スタート時は、美容院で女性客がドライヤーチェアに座って髪をセットしている間に、実際に肌につけて効果を試していた。
エスティの凄いところは、一人の女性の気持ちをすぐに察知できる卓越した直感力が備わっていた。極めて有能なセールスウーマンであり、マーケッターだった。
製品に興味を持ってもらうには、消費者と実際に話し、消費者に効果を実感してもらった上で製品について説明する必要があると考えたようだ。
転機が訪れたのは2年後の1948年に、ニューヨーク5番街の高級百貨店、サックス・フィフス・アベニュー(図2)に売場を設けたことだ。大規模な広告キャンペーンを行うことができなかったエスティは、百貨店サックスの郵送リストを利用して、サンプルとプレゼントを郵送するというマーケティング戦略にでた。
この「ギフト ウィズ パーチェス(購入者へのギフト)」という手法は、今では化粧品業界の標準になっている。エスティの的確なアドバイスと高品質が高く評価され、ここで多くの顧客獲得に成功する。
また、「広告写真が人の羨望を集め、かつ親しみやすいものであること」にこだわり、その期間ごとにブランドの顔となるモデルを一人に絞った。また、高級感を醸し出し、バスルームのインテリアとも合うとして、化粧品を入れる瓶の色には淡いターコイズ(水色)を選んでいる。
成功を決定づけたのは初めての香水で、1953年に誕生したバスオイル「ユース デュウ」だ(図3)。当時は、フランス製の香水を耳の後ろに一滴たらすというのが従来の香水の使い方だったが、香水よりも安く通常よりも2倍の濃度で作られたユース デュウはお風呂に入れて楽しむことができた。
発売を開始した年に5万本を売り上げ、1984年までには1億5000万本の販売本数を誇るヒット商品となる。これで勢いを得たエスティ・ローダーは、製品数を増やし全米で製品を販売するようになる。スタートアップ企業だったエスティ ローダーは一躍数百万ドル規模の大企業の仲間入りしていく。
現在は美容液「アドバンス ナイト リペア」が世界中で1分あたりに22本売れ(図4、2019年)、150を超える国や地域のブランドとして発展し、年間73億ドルを売り上げ従業員3万8500人で90%以上の株はローダー家で占められている。
先見の明があるビジネスウーマンであったエスティには、フランスの最高勲章レジオンドヌールを授与され1995年に引退した。ヴェルサイユ宮殿の修復やニューヨークのセントラルパークにいくつもの公園を建設に資金援助している。乳がん撲滅キャンペーンのピンクリボンなどさまざまな慈善事業も支援してきた。
おわりに
エスティとは時代も環境も異なった今の化粧品業界で、日本にも女性社長はいる。大手化粧品会社ポーラの及川美紀社長だ。2020年社長就任とほぼ同時にやってきたコロナ禍でどう向き合っていくのか。ある対談でこう述べていたのが印象的だった。
「働き方も働く意味も、多くの人がコロナに直面して考えさせられたと思います。感染予防のためのリモートワークも、子育てや介護をしている社員にとってはもはや今後もマストとなる。リモートか出社か、ではなく、リモートも出社もと、これからは『or』ではなく『and』で物事を考える世界でなければならないと思っています」。また、「未来を予測することはできません。でも、未来に続く仕事は作っていける」と。