はじめに
姓氏研究家の森岡浩によると、日本人の苗字30万種のベスト10は佐藤、鈴木、田中、渡辺、伊藤、山本、中村、小林、加藤の順であるという。友人・知人、ご近所に同姓の方が何人もおられることだろう。明治政府は、1870年(明治3年)に「平民苗字許可令」を発令し、それまで貴族と武士しか名乗れなかった苗字を平民も名乗れることを許可したが、平民は税金徴収策と疑い許可を求める数が増えなかった。そのため1895年(明治28年)に「平民苗字必称義務令」として許可制から義務制に法的に絞り一挙に日本中に苗字が誕生したようである。
では化粧品の会社名の由来はどうだろうか。例えば、「ディーエイチシー」の社名由来は、サプリメントのドコサヘキサエン酸(DHA)をイメージしてしまうが、まったく関係がない。委託翻訳を業務とする大学翻訳センターを創業していた吉田嘉明が、1980年に化粧品事業に進出し、Daigaku Honyaku Centerの頭文字をそのままとってDHCとしている。社名は、会社のルーツを知ることになり創業からの歴史を垣間見ることができる。冒頭の個人の苗字と同じ頃、明治に誕生した2大メーカーの社名について述べてみる。
資生堂1)
1872年(明治5年)に新橋―横浜間の鉄道開通とともに、洋風煉瓦づくりの「銀座の柳」の街並が整った。洋食屋、パン屋、洋服屋などのハイカラな店が並び、煉瓦敷きの舗道を断髪洋装の男女が闊歩した。この年福原有信は、日本初の珍しい西洋薬の調剤薬局を出雲町(現在の銀座七丁目)に創業した(図1)。
有信は安房(千葉県南部)の郷士の家に生まれた。漢方医を祖父にもち、17歳で江戸に出て、織田研斎のもとで西洋薬学を学んだ。幕府医学所、明治維新後の大学東校(現在の東京大学医学部)で西洋薬学を学び海軍病院薬局長となったが、23歳の時には、その地位に安住することなく官を辞して、当時の日本にはない医薬分業の考えを唱え『資生堂薬局』を開業したのである。
「資生」とは、細い竹を使用する占いの書である中国の古典、『易経』の"至哉坤元 万物資生 乃順承天"に拠る。と書いている私にもよくわからないので訳すと、「大地の徳はなんとすぐれているのだろう。万物はここから生まれている」という意味である。商号にこの資生を掲げたところに、東洋的な精神と西洋科学を融合しようという"和魂洋才"の理念が見える。世間に粗悪な薬品が多いことを憂えて、高品質な薬品を供給したいという望みがあったが、開業当初の経営はかなり苦しかったようである。
1897年(明治30年)、資生堂はオリジナル商品として化粧水オイデルミンなどを発売し、化粧品事業に進出した(図2)。
オイデルミンは、大学東校以来の友人である東京帝大教授長井長義の処方によるもので、ガラス容器の美しさもあって"資生堂の赤い水"として評判を呼んだ。そして現在も愛用される100年以上続く超ロングセラー商品である。
夏目漱石は『門』で「自分の下宿にゐた法科学生が、一寸散歩に出る序でに資生堂へ寄って、三つ入りの石鹸や歯磨を買ふのでさえ、五円近くの金を払ふ華奢を思ひ浮かべた」と書いた。当時から資生堂が高級感をもっていたことを物語っている。
島田邦男
琉球ボーテ(株) 代表取締役
1955年東京生まれ 工学博士 大分大学大学院工学研究科卒業、化粧品会社勤務を経て日油㈱を2014年退職。 日本化粧品技術者会東京支部常議員、日本油化学会関東支部副支部長、日中化粧品国際交流協会専門家委員、東京農業大学客員教授。 日油筑波研究所でグループリーダーとしてリン脂質ポリマーの評価研究を実施。 日本油化学会エディター賞受賞。経済産業省 特許出願技術動向調査委員を歴任。 主な著書に 「Nanotechnology for Producing Novel Cosmetics in Japan」((株)シーエムシー出版) 「Formulas,Ingredients and Production of Cosmetics」(Springer-Veriag GmbH) 他多数
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